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呼夢三線広め隊682番 

東京都 asa

 

 

私の音楽は、母がジャズ好きで、「茶色の小瓶」を聞いたときから始まりました。

今でも母はジャズを聞くと小躍りを始めます(笑)

 

家にあったのは、音量の調節が出来ないオルガン。油性ペンで「ドレミ・・・」と全部の鍵盤に書いて覚えようとしてましたが、習い事でやっていたのは、絵画・工作教室。音楽と全く関係なし・・・

 

さらに、小学生の頃から音楽と美術は大好きだったものの、演劇が楽しくて、中学入学時は、演劇部を熱望。

 

いよいよ入学という時、廃部になってしまった・・・ということで、「野球応援がしたいから」という理由だけで、吹奏楽部に入部。

そして、存在すら知らなかったホルンを担当することに。

 

高校生では念願の野球応援!試合に見とれすぎて、楽器を吹かないという失態をよくやっていました。吹奏楽一色の高校生活でした。

 

コンクールや海外遠征を経験させてもらい、ホルンを始めて、やっと楽器の、演奏の面白さを知った時期でもありました。

と同時に、人との競争にも疲れてしまった時期でもありました。

 

演奏は続けたいと考えていたとき、またまた「バイオリンを近くで見たいから」という理由だけで、市民オーケストラに入団。

入ってから、オーケストラでホルンといえばかなり目立つ楽器ではないですか!!と気づき、ソロも多く担当し、上手くいったときの指揮者の合図や、他の演奏者から賞賛の声に味をしめ?楽しく続けていきました。

 

本当にたくさんの仲間との出会い、音楽との出会いがありました。

 

**********

 

時期は前後しますが、社会人2年目の時、悲しい出来事がありました。

 

大好きな家族が亡くなったのです。

享年24歳、あまりにも早い別れでした。

 

私から笑顔が消えました。

 

どうやって笑えばいいのか分からなくなり、お笑い番組を観て笑い方を練習することもありました。

 

笑顔になるにはどうしたらいいのか、「今の」私が出来ることは何だろうか・・・そう考えていたときに、音楽療法に出会いました。

 

音や音楽で、自分と家族を救うことが出来れば・・・

 

音楽療法を学ぶことは、私にとって経済的にも決して簡単なものではありませんでしたが、一念発起し、社会人4年目の終わり、退職。養成校に入学しました。

 

家族や同期の友人たちに支えられながら、音の力、人の力を感じながら学ぶうちに、実習やボランティアで出会った方々の笑顔を見ることができました。

 

そして、ボランティアで交流のあった方から、

「あなたっていつも笑ってるわね。笑顔が素敵よ。」と言われ、

初めて自分が笑えているのに気がつきました。

 

自分の出した音で笑顔になってくれる人がいるのなら、そんな思いで3年の学生生活を終え、医療機関で働き始めました。

 

当時、音楽療法という言葉は現在ほど広まっておらず、「音楽療法士」の立場を確立することも一苦労でした。

「うたを歌っているだけで楽な仕事」と言われ、何度も悔しい思いもしました。

 

同じ部署の職員の理解・協力を得ながら、「音楽療法」の活動をほそぼぞと続けていくうち、周りにも変化が出てきました。

病棟の職員の反応です。明らかに患者さんがいつもと違う表情をしていると、笑顔で教えてくれたのです。

また、歌が上手くないために声をからしている私に、あるご家族が声をかけてくれました。「音楽の時間に参加するようになってから、この時間以外にも、歌ってるの。笑顔も久しぶりにみたのよ。いつも本当に頑張って歌ってくれてありがとう。」と。

 

がむしゃらに「やらなければいけない」と奏でていた私の音楽。ふと、張りつめていたものが一気に緩み、音と人の力を再確認しました。

 

 

そして、三線を行うことになるきっかけになった、ある人と出会います。

沖縄で長いこと仕事をしていた三重県出身の、沖縄から車で東京にくるというツワモノ。

 

病院行事で「涙そうそう」をやることになり、私はピアノ伴奏、その人は三線を演奏しました。

 

その時に聞いたのは、とても温かな音・・・

楽器は知っていたけれど、ちゃんと音も聞いたことがなかった私は、

 

「いつか私もこんな音が出せるようになりたい。」

 

でも、すぐには三線をやろうとは思いませんでした。

 

 

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それから数年後、続けていたホルンを辞める時がやって来ました。

 

「これ以上は、勧められない。」

 

ドクターストップでした。

 

自分を守るためにも、音楽人として、多大な力を貸してくれたこの楽器、仲間を手放す決断をし、感謝を伝え、お別れしました。

 

 

そして、もう一度、笑顔が消えました。

 

しばらく音楽はやらない。たぶん、もうやらない。

 

 

医療福祉分野での仕事はしていましたが、音楽療法からは離れていました。

自分の気持ちや感情を押し殺しているような時期でもあり、それを何とか吐き出すために、詞を書くこともありました。

 

詞を作ることは小さいころから好きでした。銀色夏生さんの影響を大いに受け、大した賞ではないのですが、地域のコンクールで賞をもらうこともあったり、また、作文を書けという課題なのに、詞を書いて出して合格をもらうこともありました。

 

でも、書いても書いても、感情は文章になっていかない。

いつまでも暗闇から抜け出せないような、とぎれとぎれの詞しかできませんでした。

 

 

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そんな時期を過ごしていたとき、買い物をしていた店で、沖縄の音楽が聞こえてきました。

もちろん三線の音も。それで、思い出しました。

 

「そうだ、三線。あの音が聞きたい。」

 

Youtubeで検索すると、ニコニコしながら弾いているおじちゃん(すいません)が出てくる。楽しそうだなと、いつも観ていました。

そして、購入するなら沖縄で相談したいな・・・このおじちゃんのお店があったらな・・・と思っていたところ、「呼夢三線販売店」を発見!

 

早速メールを書きました。すると後日、電話が・・・。

 

早口だし!

方言だし!

英語だし!

あんまり聞き取れないし!!

 

でも、あー、やっぱりこのニコニコのおじちゃんだ(笑)と、お店で相談したい旨を伝えました。

 

 

8月、沖縄の太陽がこれでもかと襲ってくる季節。そして、待ちに待ったおじちゃん(上江田さん)と初対面。

 

笑顔につられてずっと私も笑ってたように思います。そして、すぐに三線を持たせてくれて、構え方、弾き方を教わりました。

 

やっぱりいい音だ!

 

購入の相談もさせてもらい、沖縄からはるばる私のもとに三線が送られてきました。

 

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仕事は忙しかったのですが、1.2年前から、やっと体力、生活に余裕が生まれると、自分の気持ちも文章にすることが出来始めました。

その内容は、暗闇から出られないものではなく、もっと優しくて、感謝の気持ちを込めたものとなっていきました。

 

そして、三線は、弾き始めると楽しくてしょうがない!

 

まだ、沖縄のことや音楽のこと、勉強不足だし、歌も上手くない。

 

あの時聞いた温かい音、それはまだ出せないけれど、

好きなように好きなうたを、好きなだけ歌う!

 

もう、やらない・・・じゃなくて、無理なく奏で続けよう!

 

 

今、私は、ちゃんと笑っています。

作り笑いじゃなくて、きっと本当の笑顔です。

音楽で、やっと自分を救い上げることができました。

 

たくさんの仲間、大切な楽器と別れたけれど、また、新しくたくさんの人と出会えた。

そのことに本当に感謝しています。

 

私の投稿には、詞や作ったうたを歌っているものが多いです。そんな投稿にコメントを残してくれる方々もいてくれて、有り難いです。

 

そんな私ですが、三線の練習も楽しく!頑張っていきたいと思っています。

 

今後ともよろしくお願いします!

 

 

682番 asa

 

 

 

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